昭和四十五年六月六日 朝の御理解
御理解第三十一節 「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」
神恩報謝の心と、そういう生活が真の信心生活だと思います。神恩報謝の生活、全ての事柄に感謝の心を持つ、全てのものに礼を言う心持ち。ところが礼を言う心持ちどころか反対の事になってくる。不平不足の心が起こって参りましたり、又はお礼を言わなければならない事をうかつにして忘れておったりというような事になる。そういう全ての事に感謝をする心というのは、捧げる心というのは、そういう心が身についてしまう。自分のものになってしまう。そこんところが信心の稽古だと思います。それにはやはりそれだけの身についてしまうまでの、心得心掛けというものが大事である。そこで本気でひとつ忘れんように全ての事に何でもかんでもお礼を言うぞと、いうならもう布団にでも枕にでも、とにかく使わせて頂く全ての物に有り難うございましたと、お礼を言うような心持ち。そういう心持ちが生き生きと全ての事に表されて・・・。ところが段々そういう事が実行されて参りますと、それが例えば口癖のように「金光様」とか「有り難うございます」とか言うようになります。「有り難うございます!」「有り難うございます」うちの母なんかもう口癖のようになってるようですよね。もういつもそれを言うております。まぁ悪い事ではありません。けれども実感も何もあったもんではない。ですから本当にそれが口癖になる程しに有り難うございますを連発させて頂きます、その有り難うございますの中に、本当にそれが有り難うございますが天地に通ずると言う程しに、いわば神様に通ずるという程しの有り難うございますを言い続け申し上げ続ける。いうなら捧げ続ける。その捧げ続ける事の為にね、いわゆる心掛けが必要なんです。初心忘るべからずと申しますねぇ。家庭の中でも花嫁になった時の心持ちというものを忘れなければ、と言われておりますねぇ。これは花嫁だけに限った事じゃないですよね。花婿だって同じ事。花婿の時の気持ちを忘れなければ、夫婦喧嘩はしません。とにかく口には言わんでも仲良うやっていきましょうや、仲良うやっていこうやというものがいつもある。しかも、その楽しさというようなものもです、自ずとそこに出来てくる。
今月の信心の焦点が「仲良く楽しく有り難く」という事でございますから、例えばとにかく、花嫁がそれこそおどおどしたような初な心ですねぇ、初心、又は花婿でも同じ事。いたわり愛するその心というものが、花嫁だけではない。やはり花婿にもなからにゃならん。いやだけではない。家族の者にもなからなければならんと。例えば息子の嫁をもろうたと言うた時には、家族の者が兄弟も又は姑親達もです。初めから兄弟の嫁さんが来たんだから、いっちょいじめてやろうかとか、姑ばばさんがいくら意地が悪いと言うても、息子の嫁が来たならいっちょこねてやろうというのは、そげんありませんよね。ところが段々花嫁の初さとか初心といったものが、花嫁自身に無くなってくるところから、いわば家族の者もですね「初めの間は、あの人は猫かぶっちゃったつばいなぁ」というようなところを段々見えてくる訳なんです。そんなら姑でもそうです。来たはなは、お母さんはえらいやさしい人のごたったばってん、どうしてそげな事じゃなか事が段々分かってきた。いわゆる化けの皮が表れてくる訳です。いわゆる初めの時のような心得とか心掛けと、その初めの間に思うておった事が段々段々崩れてくる。ですから私は、この三十一節をなる程「木の切り株に腰をおろしても立つ時には礼を言うような心持ち」というなら礼を言う事はいらんような事柄の中にでも、礼を言う心持ちを忘れてはならん。もう済みませんと、そげん言わんでもよかごたるところにでも済みませんを言わせてもらうとか、有り難うございますを言わせて頂く事だと思います。そういう心持ちになれよと。ですからここのところはですねぇ、これは御理解ですけれども、神誡、神訓として頂かねばならんところだと思いますねぇ。信心させて頂く者はこうしてはならんぞという御神誡、信心させて頂く者はこの心持ちを忘れてはならんぞという内容がこの三十一節にはあると思う。御神訓の中に「真の道におりながら、真の道をふまぬ事」といったような御無礼。「信心する人の真の信心なきこと」といったような御神訓がありますねぇ。神訓神誡というようなもの、神様の誡め又は信心させて頂く者は、こうあっちゃならんぞといったようなものが、この三十一節の御理解の中に感じるといいですねぇ。そこでです、例えば礼を言わんでもよいような事柄の上にでも礼を言う、お詫びをせんでもよいごたるところにでもお詫びをする。それは丁度花嫁の心持ちなんです。有り難うございました、済みません。仲良う有り難う楽しゅうなっていく為にそういうその事に本気で心掛けさせて頂くという事がね、大事じゃないだろうかと思う。それがいうなら身についてしまうまで、そこんところの心掛けを三十四節の「ここへ参っても神の言う通りにする者は少ない。皆帰って自分のよいようにするからおかげはなし」と。おかげはなしとおっしゃる。ですから私共がね、神の言う通りにする。神様の言うて下さった事を頂いて帰って、それを初心忘るるべからず。それを生活の上に表していくという生き方。そしていかに有り難うございますとか済みませんといったようなその心持ちが大事かという事が分かります。本当にこの口で言う事は易いですけれどもねぇ、誰でも初心忘るるべからずと知っているんですけれどもねぇ、一般に今も申しますように家庭円満のおかげを頂く為には、花嫁になって来た時の気持ちを忘れさえせにゃという事だけはみんなが言うけれど、なかなか一時するとすぐいわば横着になりわがままになり、その横着がわがままが目立って来るところに、うちの嫁はもらいそこのうたという事になってくる。だからそれはずーっと花嫁の気持ちでおるという事は、堅苦しいようであるけれども、窮屈なようにあるけれども、それが身についてしまうまでが、私は信心だと思うです。自分のものになってしまう。
夕べ壮年部会でしたが、いろいろ皆さん体験発表があっておりました。久留米の石井さんが久留米からここまで自動車に乗ってやって来るのに、自分が運転をしてきたという気持ちがない、と。いつの間にかここへ来ておったと言う。という程しにもう自動車は私の体の一部分になってしまっておるんだという事。あそこは曲がり角じゃからこげんなんならんとか、向こうから自動車が来よるけんでどうせにゃならん、これを踏まにゃならん、回さにゃならんという気持ちは全然ないという。車に乗る、ハンドルをとらせてもらう、いわばそげな事は考えんなりに合楽に着いておったと・・。いわばもう自動車が自分のものになってしまっておるし、又は運転技術というものが身についてしまっている。皆さんでもやっぱりそうでしょう。私は自動車に乗れんから分からんけれども、まぁ自転車に乗りましたら理屈は同じ事。自転車が自分の一部になってしまっておる。ところが乗り慣れぬ間はです、いわゆる運転免許をとるまでは、そこにいつも意識をしておる。向こうからこう来たならああせんならんというような一つの約束があるでしょうね。いつもこうしなけりゃならん、ああしなけりゃならんと、かえって思うておる事がぎごちなくなってくる事すらありましょう。信心させて頂いておってもです、信心する者は木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ちになれよ。木の切り株と言や、いうならあんまり役には立たないようなもの。大していうならば、お礼を言わんでも済むような事柄の上にでも、お礼を言う心持ちを忘れなよと、こうおっしゃる。ですから私共がです、もう忘れなよとこう言われておるのですから、それを心掛けなければいけない。だから初めの間は「あら又忘れとった」という事になるのですよ。ある人が、もう今日こそは自転車に乗るたんびに「乗せて下さい」と願おう、降りたら「有り難うございました」と言おうと・・・乗って来る時は言うと忘れとる。降りた時にはもう黙って上がって来とる。もうちょっとこげん難しかもんはなかですよと言うてから、言うた方があったが本当、実を言うたら難しいのです。昔、笑い話にありますように、まぁだお餅なんかない珍しい時分、ある山の中の人が、嫁さんの里へ歩いて行った。初めてそのお餅というものを出されたという訳です。それがとってもおしいかった訳ですよねぇ。だから「これは何というもんでしょうか」と。「これはボッチというもんです」とおっしゃった。それから帰って又ボッチをね、嫁に作ってもらおうと思うてから忘れんごと、ずーっと帰る道々「ボッチボッチ」と言うてずーっと行きよった。ところがやっぱ山の中の事ですから、谷を越えたり山越えたりして行かにゃいけん。その谷をちょっと越える時に「どっこいしょ」と言うてとんだ。それから「ボッチボッチ」と言うて行きよったのが「どっこいしょどっこいしょ」という事になってしもうた。本当に笑い話のごたるけれども、そんなもんじゃないでしょうかねぇ。ほんなこて今日は全ての事にお礼を言うぞ、お礼を捧げるぞと感謝の心で過ごすぞと、こう言よる。そう思うて帰りよるけれども、どこの辺からかちゃんと間違うてしもとる。どっこいしょになってしもうとる訳です。ですからやっぱり初めの間は、運転技術を覚えるまでは難しか。心掛けた上にも心掛けておかなければ、やはり自動車運転なら自動車運転でも出来ない。身についてしまえばです、喜代司さんの昨日の言葉ではないけれどもです、久留米からここまで自動車で来たという意識すら、又は自分が運転して来たという事すら、それからというて眠って来た訳じゃない訳です。それ程しにもう自動車は自分の体の一部になっておるという事なんです。技術はもうそれだけ、いうならば自分の身についてしもうておるという事。だからせめて自動車運転免許をとる位の気持ちを皆さんが信心させて頂くなら、心掛けなければ駄目なんです。
「木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」ちょっと他の事しよったら、もうちゃんと忘れてしまう。どういう事の中にでも信心がある。どういう事の中にでも感謝の心がいっぱいである。その感謝の心が様々な行動というか、様々な各々の生活の現場においてです、感謝の心が捧げられるという事がです、私は信心生活だと思う。それにはね、例えば今日言う、ひとつ花嫁の心持ちになれよという事です。その花嫁の心持ちじゃない。花婿の心持ちになれよ。いや嫁を向かえた家族中のあの向かえた時の気持ちを忘れるなという事。初めから嫁をもろうたら、夫婦喧嘩しようと思うてから嫁をもらう者はおらん。夫婦喧嘩する為に嫁をもらうのじゃない。それこそ初めの間は、仲良うやって行きましょうや、仲良うやって行こうという、口には言わんでも心の中ではそれを思い続けて、しかも嬉しゅう楽しゅう行こうと思うておる。家族の者でもそうです。嫁さんが来らっしゃったら、みんながっさりで嫁を可愛がらにゃいかんよと、兄ちゃんの嫁さんが来たならみんなで親切にしてあげにゃいかんよと、そう言うたり思うたりしとる、家族の者も。ところがどの辺からか狂うてくる。いつの間にかどっこいしょになってしもうとる。
私はどうでもひとつ信心というものがね、本当の意味に於いての信心生活というものを体得出来る。只、頼む時だけが神様というのではなくて、金光様ではなくて神様は又は金光様は、例えばここへ参っても神の言う通りにする者は少ない、皆帰ってから自分の良いようにするからおかげはなしとおっしゃるのだから。神様の言うて下さる事、教えて下さる事を本気で行じなければ、守らなければならない。それも一時は、又忘れとった。ちょいと本当にやっぱり難しい事じゃあるなぁと思うようにありましょうけれども、そこをひとつ繰り返し繰り返し、繰り返させて頂いておるうちにです、それが身についてくる。運転技術が身について来るようなもの。そこで三十一節の御理解の内容としてです、これは御理解と事の道理を言うて聞かせてあるというだけではなくてです、信心させて頂く者の心得として、いわゆる御神訓といて頂く。又は信心させて頂く者の誡めとして御神誡として頂く、信心する者はこういう事であっちゃならんぞと、いわゆる御神誡なんです。真の道の心得という、これを御神訓と思う。この御理解を頂く、礼を言う心持ちになれよと、身についてしまうまでが稽古である。
私、昨日、一昨日鯉に餌をやろうと思うて、この位の小さなビンに餌が入れてありますから、私、やった事はないのですけれども行ってみた。その餌の入っているビンの所へ行ってちょいと手を出したところが、青いふたがしてあるのですが、そこに青ガエルがとまっておる。もうびっくりしてから「はゝあ、これは神様が餌をやっちゃならんと言いよんなさるとばいなぁ」と思うてから、もう餌をやる気持ちもなくなってしまったですけれども・・・。私は、別に怖いものというものはないけれども、あれだけは怖い。もうこれだけは身の縮むごたる。今度の少年少女会の時に、今度はあの木が茂りましたからね、非常にあの青ガエルが奥なったんです。どこ行ったっちゃ便所の中にでも上がって来とる。もうハッとするです。あれを見ると。初な心とは、あげなもんじゃないでしょうかね。ハッとするようなもの。それが実感なんですよ。どういうもんでしょうかねぇ。私はあれを見ると神経がシャーンとなるです。どんなに眠かったっちゃパッと目が覚めてしまう位にあるです。
昨日、先月の企画の方達が企画されておったステレオが参りました。それにですねぇ、本当に私は驚きましたが、古いレコードがありますからそれをかけてみましたらね、鳴らんです。もう針がですねぇ、非常に軽いんですよ。ですからそこの前をちょっとひどく歩きますと、その針がポンととぶ。ちょっとしたほこりがついておるのでも飛び越えて行く訳です。だから良い機械、良いステレオになればなる程、レコードのお掃除が十分出来ておかなければならないという事です。 神経というものは、そのように細かくなってくる、良いものになればなる程。神経というですか、感度というものがね。信心頂いておって、ひとっつも心掛けんなりに、もういつもいつも「金光様、金光様、有り難うございます、有り難うございます」ばっかり。本当の稽古をせんなりに、只口から言うたりしよるだけの信心じゃ駄目だと。今、金光様て唱えたが、どれ程の思いが込められての金光様であったか。有り難うございますと言うておるが、どれ程しの有り難しであるかという事を、自分の言うておる金光様の中に、有り難うございますの中に反省していかなければいけないと思います。
私は、今日皆さんに分かって頂きたいのはね、そういう神経の行き届いた有り難うございますでなからにゃいけんという事。そういう信心が身に付くのです。そういう信心が身についていきながら、信心が上昇していく、信心が高められていくのですから、それは上等のステレオと同じ事です。その感度たるや、もう少しのほこりも許さない。
もう十四、五年も前だったでしょうかねぇ。もうやがて二十年位なりましょう。椛目の時代、御本部参拝させて頂いた時、秋永先生とちょっと遅くなりましたからもう斎場がいっぱいでした。それから前の方へまわりましたら、来賓席の方へ参りましたら席がいっぱい空いておりますもの。それから秋永先生に「あそこへ行こうや」と言うてから前の方へ座らせて頂きました。おかげで二人座る所を得て、もう本当に金光様がお出ましになるところの、ほんの目の前で金光様を拝ませて頂いた。御装束をおつけになって斎場にお出ましになられた。そしたら丁度、私共の目の前の所でちょっとこうかがまれた。そしたらほんのちょっとしたわらすべが落ちとったらそれをちょっと拾ってたもとの中にしまわれたんです。私は秋永先生に「秋永先生、秋永先生、金光様の御信心はあれよ」と私が申しました。もう自分の前に、この位なわらしべがあっても、もう前には進まれなさらんとですよ。しかも御祭典の威儀を正してお出ましになっておられる時にそうだった。 私が今日、皆さんに分かって頂きたいのはね、そのような感度なんです。金光様は「有り難うて、有り難うて」とおっしゃるその実感そのものが有り難うて有り難うてなんです。ところが多くの長い信心をしておる者がです、言うております「金光様、金光様」と。日に何十辺言よるか分からんばってん、もう実感も何もあったもんじゃなか。そげなこつじゃ金光様は聞こえござらん。「有り難うございますー!」とほんなこて有り難かつかと思うとったら、不平不足ばっかり言よる。感度というものがひとつも、神経がそこまで集中したものでないという事。いわゆる本気での運転を稽古してないという事なんです。身に付いておるようであるけれども、それはもう癖になってしもうておるというような有り難うございますでは、これは何にもならない。通わなければいけん。そこで私共が本気でね、木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ちになれよという事をです、そういう心持ちになれよと、そういう心掛けにならなければ信心にはなれんぞと。又、お礼は言わんでも済むような事、お詫びはせんでもよいごたるような中にでもお礼を言うていけよ、お詫びを言うていけよと、いわば木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言うという、そういう姿勢が少し初めの間はぎこちなかろうけれども、それを自分の身に頂いてしまうまでは、おかげを頂いていきたい。 お互いの信心神経というものが、余りにも大きすぎる。という事は、どういう事かと言うと実意丁寧ではない、横着だという事なんだ。本気でひとすくいの水にでも「有り難うございます」と感謝の心が捧げられる、本当に捧げられるそういう稽古なんです。信心とは。だから本当に有り難いという実感が自分の周辺にいっぱいありますから、いわゆる真に有り難いと思う心、直に霊験の初めとおっしゃるように、その有り難いという心に頼まんでも願わんでもおかげが頂きとめる事が出来る事になってくるのです。
お互いが、もう何年信心をしておりますと、いうならば果たしてその有り難うございますの中に、どの位本気での生き生きしたというか、例えば私が青ガエルを見てハッとするようにです、そのハッとするような思いで有り難うございますを発見したり、又はお礼を捧げておるかという事なんです。だから自分の信心がね、進んでいっておるとか上達していっておるという事は、そういう内容を見れば分かるんです。もう有り難うございますを何辺言よるじゃれ分からん、金光様は日に何十辺唱えよるじゃ分からん、という事ではなくてです、その一言一言の金光様がです、実のある金光様であり、有り難うございますでなからにゃいけないという事。
柔道の達人と言われるようになりますとね、決してたとえ冬の寒い時でも腕ぶつ(そでの中に手を入れる)をつくらん。柔道の心得のない人やらは、寒かりゃ平気でされる。それを見たら柔道の達人の人は、もうそれこそヒヤヒヤするそうです。あげな事して行きよって後から、はがいじめにパーッと抱かれたら、もう手も足も出らんがなぁと思うらしい。ですから達人になればなる程そうらしいです。手を出していつでもパッと応えられるようにしてですねぇ、手を出して歩くそうです。
剣道の達人と言われるようになると、例えば道を歩いておっても決して早曲がりをしない。もう心掛けの中にそれが身にしみ込んでしまっておる。もし出会い頭にポーンと切り込まれたら、もうおしまいだというんです。だからこちらの遠まわりの方をまわる。そうすると誰が向こうから来よるという事が分かるでしょうが。だからね、何の道でも稽古させて頂いたら、そういう心掛けがあるのです。心得というものが。信心させて頂く者も同じ事で自分の信心が上達していけばいく程です、そういう神経が例えば使われる信心。これは私共でも思います。信心の無い人達が本当に横着言うて、それでお金儲かりさえすりゃいいとか、具合ようやっていきよるごたるけれども、それこそ私共、ささやかな信心でも頂いておる者から見るとです、それこそ壊れた橋を渡っとんなさるようにヒヤヒヤして見ております。信心の無い人達の姿というものを・・・。ですからそのように、いわば見えてこなければ駄目。そのように心掛けというものが出来てこなければ駄目。ですから一番始めのところの、信心する者は木の切り株に腰を下ろしてもとおっしゃる、そのお礼を言う心というものをほんとに作らせて頂いて、それが段々高度なものになってくる。そこに神経がね、それこそ高度なステレオのようなものである。ちょっとした邪魔なものでも、もう許せない。例えば金光様のそれがそうなんです。いわゆる目の前にちょっとわらしべがひとつ落ちておっても、もうそこを通りぬける事が出来ない。自分に対してそのように厳しゅう段々なっておいでられる。そういう意味でですねぇ、今日のこの三十一節を頂く。そすとこの中にですね、神誡、神訓、御理解という言葉をですね、そういう内容を持った御理解という事が分かりますね。この三十一節は。神誡、神訓、御理解の内容を持った、これは御教えだという事になります。だからこの事ひとつだけでも、自分のものに例えば只今申しますような意味合いに於いて、自分のものにしていけばです、おかげが受けられる道だという事でありますね。どうぞ。